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鬼城の景
鬼城とは読んで字の如く鬼の城と書く。いつ頃誰が鬼城の漢字を当てたのかは知らないが、あんな凄い岩が長く並んでいるのであるから、鬼の角が、いや鬼が角を立てて並んでいると見えて鬼城と何かに書いてあったのが残って、後の人が、「やぁ、鬼城と書いてある。よくいったものだ。鬼城だ、その通りだなあ。」となって、
昔の人がいっていたのだからやっば鬼城じゃ、鬼城じゃと言って、
もう鬼城以上の適切な名前はなく、自然鬼城になったものであろう
だから私は、鬼城音頭のいちばん最後の章に「誰がつけたんか、いつ頃んこつか、誰も知らんもいう。昔からん話じゃ。」と本当のことを言ってある。
そしてあの谷から流れ出た川に県道が掛かっていたので、その橋の名前を「鬼城橋」と県土木はつけてあった。
なのに、この鬼城橋を堰提の下に沈めてダム湖水が出来たのにこのダムを並石ダムと命名してしまった。私がいくら市や町の人に言っても、誰もダムの名を鬼城ダムと現地通りには変えてはくれない。
伊藤義秀 先生
鬼城の物語
ずっと昔、下克上の頃、豊前豊後を荒し回る強盗の一団があった。六助はその一団の中の一人であった。あまり乗り気ではなかったが、逃げるわけにもいかず、仕方なく人並みに強盗を働いていたのである。それは、六助が食もなく道に行き倒れていたところを、その一団に助けられた恩義があったからである。初めは何をしてよいかわからぬ位だったので、言われるままに、家の回りに薪を置いて頃合いを見て火をつけたりする位だったが、盗んだものを分けて貰ったり食べさせて貰ったりするので、そんなに怠けるというわけにもいかず、どうやら先輩に文句を言われぬ位になっていた。そうしたある時、この一団が高田にやってきた。高田はハゼの問屋が何軒かあった。玉津芝崎の紅葉屋もその一軒であった。
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